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 改札を出たところであたしは携帯を握り締めたまま、まさにバケツをひっくり返したような雨が落ちてくる暗い空を見上げた。 朝はこれでもかというくらい晴れていたのに。


  冬うらら


 季節外れの大雨。傘があってもこの雨の中を歩くには少し勇気がいる。改札付近はあたしと同じように途方に暮れたように空を見上げたり携帯をいじったり、動くに動けない人でこみ合っていた。
 今日ばかりは何も買えなくてよかったのかもしれない。これで荷物があったりしたら大変だ。これからデートなの、と両手いっぱいの荷物と一緒に彼氏に車で拾われていった鈴ちゃんが羨ましい。
 止みそうにない雨に小さくため息をついてから、また携帯の画面に視線を落とした。
『駅まで迎えに来て』
 十分前に打ったメール。宛先は立花浩行。十分前に打ったまま送信ボタンを押せずにいた。
 あんな奴に頼んだってこんな大雨の中わざわざ迎えに来てくれるわけがない。しかも出がけに喧嘩してしまった。
 あたしは悪くない。
 友達と買い物してくるって言ったのに、誰とどこに行くんだとかしつこく訊いてきたクソ兄貴が悪い。挙句の果てに約束をキャンセルさせて一日中家事をやらせようとしてきたんだから、やっぱりあたしは悪くない。
 せっかくの冬休みなのに平日じゃなくてクソ兄貴がいる日曜日に約束したのは失敗だった。

 それから更に五分迷って、メールは無視されそうだったから電話にすることにした。携帯にかけて駄目だったら家の電話にかけよう。確か今日はずっと家にいるはず。電話も無視されたら……それはそのときに考えよう。よし。
 何度か深呼吸をしてから電話をかけた。ら。
『だから今日は家でおとなしくしてろって言ったんだこのぼけ』
 まさか呼び出し音が一回も鳴らないうちに出るなんて思ってもいなかったから、思わず携帯を握った手に力が入った。そして切れた。電話。
 わけがわからないまま携帯を見たら犯人はあたしの親指だった。画面は真っ暗。慌てて電源を入れた。
 これはすぐにかけ直したほうがいいんだろうか。迷っているうちに手の中の携帯が震えた。発信元は、立花浩行。
『わざわざかけ直してやったんだからさっさと用件を言え』
 恐る恐る出たら間違いなくクソ兄貴だった。出てきかけた「ごめん」という言葉はとっさにのみ込む。
「……このままだと夕飯作るの遅くなるから迎えに来て」
『他に何か言うことは?』
「……ない」
『どっかで傘でも買って帰れ』
「無理だよ! 傘売ってそうなところまで結構距離あるし、傘あっても雨凄いから絶対濡れる。この時期に雨に打たれたら風邪ひいちゃうよ」
『俺にはうつすなよ』
 クソ兄貴め、絶対朝のことを根に持ってる。
「迎えに来てくれたら、お兄ちゃんの言うことちゃんと聞くから、お願いします」
 ここで意地を張ってもあたしが損をするだけだ。仕方がないから下手に出て言った。
『絶対だな』
 念を押されて、自分がどんでもないことを口にしてしまったことに気づいた。下手に出すぎた。
『迎えに行ってやるから、楽しみに待ってろよ』
 クソ兄貴のいやらしい笑みが目に浮かんだ。



 三十分後、あたしは何とかずぶ濡れになることなく、クソ兄貴がハンドルを握る車の助手席で大きく息を吐き出していた。
 どういう風の吹き回しか、クソ兄貴がわざわざ車から降りて傘を差しかけてくれたおかげで車に乗り込むときも少し濡れた程度で済んだ。これくらいならハンカチで拭えば平気だ。
「こんなに寒いのになんで雪じゃなくて雨が降るんだ」
 思わず洩らした一言に、車を発進させようとしたクソ兄貴が反応した。
「人の忠告を聞かずに出かけた可愛い妹のため、せっかくの休みにこんな雨の中車を出してやった優しいお兄様に対して何か言うことは?」
 天気のことなんて一言も言ってなかったくせにとは思ってもさすがに口には出さない。クソ兄貴が来てくれて助かったのは事実だからしぶしぶお礼を言った。
「……ありがとうございます」
 口がとんがってしまうのは仕方がない。
 それだけか、と無言の圧力をかけてくるクソ兄貴は無視する。ここまできたらごめんなんて言ってやるものか。
「早く車出さないと後ろつまっちゃうよ」
 この雨だ。迎えを頼むのはあたしだけじゃない。クソ兄貴を待っている間も駅前のロータリーに次から次へと迎えの車が来ては去っていったのをあたしはほのぼの気分で眺めていた。
「迎えに来てくれる人がいるってのはいいもんだよね」
 呟いたのと同時に車が動き出す。寒さと雨から解放されて気が緩んだせいか、激しい雨音も車の揺れと一緒に眠気を誘う。
 今のクソ兄貴とあたしの関係は不思議だ。どうやらもう兄妹ではないらしいのにあたしはクソ兄貴のことを「お兄ちゃん」と呼び、クソ兄貴も何だかんだであたしのことを当たり前のように「妹」だと言う。色々と不満はあっても当たり前のように家族として一緒に暮らしている。
 あれが兄だというのも癪に障るけどやっぱりそうじゃないのはもっと嫌だと、思ってしまう自分はどうにかならないものか。あたしがブラコンだったのは否定できない。もしかするとクソ兄貴にそうなるように刷り込まれたのかもしれない。その存在を記憶から消したくなるくらい(実際そうしたけど)ひどい仕打ちを受け、現在進行形でも散々バカにされたりこき使われたりしているのにそれでも、クソ兄貴という家族の存在が嬉しいなんて。
「さっき言ったことは忘れてないだろうな」
「何のこと?」
 今更とぼけてみたって無駄なのはわかっているけど。
「冬休みの間は外出禁止」
 クソ兄貴のあまりの言葉に眠気も吹っ飛ぶ。
「ちょっと友達と遊びに行っただけでなんでそうなるのさ! 大体それじゃあスーパーに買い物にも行けなくなっちゃうよ。材料がないと食事の用意もできないし」
「午前中俺が買い溜めしておいてやったからしばらく買い物はしなくても問題ない。俺の言うことをちゃんと聞くんじゃなかったのか?」
 一人暮らしだったにしてはやけに大きい冷蔵庫は、何日分の食料を飲み込んだのだろう。クソ兄貴がスーパーで大量の買い物をしているところが想像できない。
「だからってそんなバカなこと聞けるわけないでしょ!」
「じゃあそこで降ろすから歩いて帰れ」
 その言葉の通り路肩に車を止め、勝ち誇ったようにふふんと鼻で笑いながらあたしを見たクソ兄貴は鬼だ。
 更にシートベルトを外したクソ兄貴は運転席から身を乗り出して助手席側のドアに手をかけた。悪魔だ。と言うかこの体勢はあたしが苦しい。嫌がらせのように至近距離にクソ兄貴の顔。眼鏡越しの、どうする?とわかりきったことを問うような目に、あたしは唇を噛んだ。選択肢は一つしかない。
 この体勢も嫌だしノーと言えば間違いなく外に放り出されてずぶ濡れになって大風邪をひくことになってしまうだろうから、クソ兄貴の理不尽な言いつけをのむしかなかった。
「……初詣、行きたかったのに」
「俺同伴の外出なら認めてやってもいい」
「なんで新年早々お兄ちゃんと出かけなきゃいけな……何でもありません」
 クソ兄貴が締め直したシートベルトをまた外そうとしたから最後まで言うのはやめた。
 再び車が動き出す。そう言えばクソ兄貴はいつ免許をとったんだろうと、どうでもいいことを思いながら目を閉じた。
 今夜は鍋にしよう。簡単だし、家族団らんな感じだし。別にクソ兄貴と団らんしたいわけじゃない。何となく、そういう雰囲気が懐かしくなっただけ。容子さんと誠さんがいなくなって少し寂しかったのかもしれない。元々家にはあまりいない人たちだったけど、朝ごはんはいつも一緒にわいわい食べていた。今は口を開けば嫌味ばかり、鼻でしか笑えないようなクソ兄貴と二人きりだから。
 ひどい交換条件を突きつけられはしたけれど、土砂降りの雨の中迎えに来てくれたクソ兄貴。家族としての繋がりはまだ切れていなかった。
 あたたかくて心地好いこの繋がりだけは、ずっと切れなければいいのに。



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