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 小さな小さな可愛い妹。
 無邪気に愛せたあの頃にはきっともう戻れない。


  いつか手折る花はまだ


「おにいちゃ……ん」
 ドアの向こう側から控えめなノックと小さな声が聞こえてきた。
 ベッドに横になっていた浩行は、眺めていた雑誌を横に置き視線をドアに向け、枕元に置いてあった目覚まし時計を手に取る。
(九時半)
 怖い夢を見るにはまだ早すぎる。
「うえ、おにい、ちゃん」
 もう一度、今度は嗚咽と共にさっきよりも大きなノック。
 このまま無視するか、それともドアを開けてやるか。
 茜は浩行が起きているだろう時間帯には決して勝手に部屋に入ってこない。そんなことをすればどんな目にあうか、一番よくわかっているのは茜自身だ。
 ずっとドアを叩き続けられるよりも、直接追い返したほうがいいという結論に達した浩行は身を起こした。
「バカネ、さっさとどっかに」
 行けという言葉はドアを開けた瞬間にどこかへ消えてしまった。
「あか、ね」
「うえっ、おに、ちゃん」
 ボロボロの泣き顔で自分を見上げてくる茜。短めの髪からは水が垂れていて。それは別にいい。問題は、その下で。
 裸に、バスタオルを一枚巻いただけの。
 浩行は自分の顔が引きつったのがわかった。
「お、おふ、お風呂にね、入ってたらね、そ、外から変な、音がして……っ」
 一度腕で顔を擦った茜は嗚咽まじりの声で続けた。
「お化け、かもしれないの。どうしよ……っう」
 素っ裸のまま来なかっただけまだよかったのかもしれない。
(お化けって、十歳にもなってまだそんなことを)
 今夜は両親が二人とも留守だから家にいるよう頼まれていたけれど、こんなことになるならその頼みを引き受けて友人からの誘いを断るんじゃなかった。後悔先に立たず。
「んなもんいるわけねえだろうが、ボケ」
 動揺を悟られないよう努めて冷静に。
「だ、だって、でも、こわいよぉ」
 剥き出しの濡れた肩。
 縋るように自分を見上げる小さな妹。
 浩行にとってはあまりにも扇情的で。

 一時期もしかしたら自分は異常な性癖の持ち主なのかもしれないと悩んだことがあった。けれど茜と同年代の少女を見ても何も感じることはなくて、この異常な感情が湧き上がるのは茜に対してだけで。
(それはいいのか悪いのか)

「お風呂、一緒に、入って」

 いつもは怖がるはずの自分の服をきつく握り締めて恐ろしいことを言う茜。
「風呂くらい、一人で入れ」
「う、うえ、だってぇ」
 前は一緒に入ってくれたのに、と泣きじゃくる茜の口から漏れた言葉に浩行の顔がさらに引きつった。
「おにいちゃんは、どうして、あかねとお風呂に入ってくれなくなったの?」
 それは実に無邪気な質問だった。無邪気すぎる故に、浩行の地雷を踏んだ。

 まだ小学生の妹の体を見て、欲情してしまいそうな自分が怖いから。

 そんなことを言えるはずもなく。
「お前のことが嫌いだからだ」

 仕事人間の父親が茜と一緒に風呂に入ることはほとんどなく、今まで浩行が父親代わりのように茜を風呂に入れていた。しかし茜ももう十歳。最近では今までの浩行の仕打ちがきいてきたのか、近寄ってくることも少なくなっていたのに。
 いつもは強がっていても、何かの拍子に昔のような甘えん坊に戻ってしまうのは、やはり小さい頃に甘やかしすぎたせいなのだろうか。


 茜の瞳から大粒の涙が再び溢れる。
「や、やだあ、嫌いって言っちゃだめなの……っ」
 疎ましいという建て前の感情の裏側にあるのは、愛しいという感情。
 自分の服をきつく握り締めている小さな手を引き離そうと、そっとその手に自分の手を重ねる。
 瞬間的に訪れた抱き締めたいという衝動を必死に抑えて。
「外で待っててやるから、それでいいだろ」
 肝心なところで茜を突き放しきれない自分をどうしようもなく思いながら。


「おにいちゃーん、いるー?」
 風呂場のドアに寄り掛かりながら、浩行は大きなため息をつく。
「おにいちゃん?」
「いるからさっさとしろ」
「うん!」
 嬉しそうな茜の声。
 ぼんやりと天井を眺める。


 もう、限界かもしれない。これ以上一緒にいることは。



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