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「あのバカ」
 マンションを出て寒空の中浩行は大きく息を吐き出した。


  drunk


「お兄ちゃん、おかえりなさい」
 帰ってきてすぐに茜の様子がいつもと違うことに気づいた。妙に甘えた感じの口調。そもそもいつもは玄関まで出迎えたりしない。そう言えば今日で期末試験が終わりだったはずだと浩行は思い出す。それで機嫌がいいのか。
「夕飯は」
 浩行は靴を脱ぎ自室に向かう。茜もその後をついてくる。
「あ……ごめんなさい」
 コートを脱ぎながら、いきなり謝る茜に視線を向ける。
「作ろうと思ってたのに、寝ちゃって」
「……もういい」
 部屋のドアを開け電気をつけると、浩行はネクタイを緩めベッドに腰を下ろした。ますますおかしい。いつもはこんなに素直に謝ったりしない。何か失敗すれば散々言い訳した後に渋々謝る程度なのに。
「お兄ちゃん」
 入り口のところに立っていた茜が、部屋に足を踏み入れ浩行の前までやってくる。
「怒ってる?」
 不安げな声に浩行は茜を見上げ、そして固まった。
 何だこの表情は。
 いつも茜が浩行に向けるような仏頂面ではなく、普段なら欠片も見せない可愛らしい表情を茜はしていた。泣き出しそうなのを必死に堪えていて、浩行は幼い頃の茜を思い出した。
「茜、お前、熱でもあるのか?」
 茜が素直すぎるのも逆に不気味で、浩行は右手を伸ばし茜の額に触れる。よく見ると茜の顔が妙に赤いような気もする。
「熱なんてないよ」
 慌てて自分の手をどけようとした茜の手を取った。久しぶりに茜に触れたなと、どうでもいいことを考える。本当はこのまま抱きしめてみたかったけれど、そんなことをすればきっと抑えがきかなくなることはわかっていたから、ずっと握っていたかった手も放した。
「夕飯はもういいからさっさと寝ろ」
 それだけ言って茜を残して部屋を出て、自分で何か作ろうとキッチンに向かい、浩行は茜の様子がおかしい原因を知った。ダイニングテーブルの上にあったのは空っぽのグラスと、数日前に容子が送ってきた梅酒の入った瓶だった。しかも量が前に見たときよりも大分減っている。
「お兄ちゃん」
 呼ばれ、浩行は手に取ったグラスを置き振り返った。その瞬間胸に軽い衝撃を受ける。わずかによろけて片手をテーブルについた。
「……茜、離れろ」
 いきなり抱きついてきた茜を引き離そうとするが、茜は小さな子供のように首を横に振り、浩行の背中に回した両腕に力を込めて離れようとしない。
「お兄ちゃん、一緒にいてくんなきゃやだ」
「梅酒で酔うな、ボケ」
「酔ってないよ」
 浩行の胸に埋めていた顔を少しだけ離して、茜は浩行を見上げた。
「あのね、今日はずっとお兄ちゃんと一緒にいたいの」
 茜は甘え上戸だったのか。これは思わぬ発見だ。とりあえず他の男と一緒のときには絶対に茜には酒を飲ませないと心に決めて。
「わかったから離れろ」
「じゃあ、今日一緒に寝てもいい?」
「あ?」
「だからね」
 熱っぽい目で見上げられ、茜が来てからずっと擦り切れっぱなしだった理性が。
「お兄ちゃんのベッドで一緒に寝てもいい?」
 踏み越えかけた線を何とか越えずに、努めて冷静に声を出す。
「わかったから」
 茜の腕が僅かに緩んだ隙に、無理やり引き離した。
 絶対だよと念を押してくる茜の横で浩行は眼鏡を外してこめかみを押さえる。冗談じゃない。ただでさえぎりぎりなのにこれ以上は。
「あ、もしかして疲れてる? だったらあたしがマッサージしてあげる」
 さらに余計なことを言い出した茜は、浩行の腕を引っ張る。
「大丈夫らよー。あたしマッサージうまいからー」
 浩行はだんだん呂律まで回らなくなってきている茜に引かれるままにリビングのソファに座らされる。茜はソファの後ろに回り浩行の肩を揉み始めた。
 確かになかなかうまい。たまにはこういうのもいいだろうと油断したのがいけなかったのか。
「んんー、お兄ちゃーん」
 突然後ろから抱きつかれる。肩に感じた茜の重みと温もり。耳元に感じた吐息。
 浩行は自分の中のどこかで何かが崩れる音を聞いた気がした。おそらくそれは理性という名の、茜を守っていた唯一の砦が崩れる音。
 茜のことは大切にしようと思っていた。確かに身体的には成長していても、中身まで成長したわけではない。茜が求めているものは自分の求めているものとは違う。
 茜はまだ子供だから。
 昔も今も、同じ言葉で自分を抑えていたけれど、もう。
 愛しているから我慢した。愛しているから抑えられない。

「茜」

 首に回された腕をほどき、そのまま勢いに任せ茜を自分のほうに引き寄せる。
「きゃう」
 急に強い力で浩行に引っ張られた茜は頭から倒れ込み、気がつけば浩行の腕の中にいた。
「何しても、泣くなよ」
 ふわふわした頭で茜は浩行の言葉を聞いた。今日は何だかとても気分がいい。だから浩行に甘えてみたりして、一緒に寝る約束もしてもらえた。
 浩行に強く抱かれた肩が少しだけ痛むけれど、それも嬉しい。ずっと触れられていたいし、触れていたい。
「ん、おにーちゃ……」
 せっかくもっと甘えられそうなのに、猛烈な眠気が襲ってくる。何故か近づいてくる浩行の顔が、だんだんぼやけてきた。
「いっしょに……ねる……」
 浩行の唇が触れる寸前、一瞬の間で茜の意識は暗闇に落ちた。



「珍しいね、お前が女のところじゃなくて俺のところに来るの」
 缶ビールを差し出しながら、浩行の高校時代からの友人である彼は笑った。
「悪かったな、急に」
 見事なタイミングで意識を失った茜をベッドに寝かせたあと、浩行はすぐに部屋を出て友人のもとを訪れた。
 あのまま茜と一緒にいたらそれは拷問以外の何ものでもない。
「まあ、久しぶりに会ったんだし、ゆっくりしていって」
 そのつもりだと返し、浩行はいつもの茜が呆れるほど素直じゃないことに、今更ながら感謝した。
 この感情がいつまでも抑えられるものではないことはわかっているけれど、せめて茜がもう少しだけ大人になるまでは耐えようと思っていたから。
 毎日あんな風に甘えられたら、きっと気が狂う。



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