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026:The World
あの頃世界は、茜中心に回っていた。
帰りの会が終わり、掃除のために机を後ろに下げると浩行はすぐさまランドセルを背負い、教室を飛び出す。
階段を駆け下りて下駄箱へ。靴に履き替える時間さえ惜しい。
「ねえ立花くーん、明日ね、由美子のうちで誕生日パーティーやるんだけど、由美子が立花くんにも来てほしいって」
「ごめん、無理」
下駄箱で靴を履き替えていたところに声をかけてきたのは数人のクラスメート。
浩行はそちらを見ることもなく、できるだけ感情を抑えた声で一言だけ答えた。
「立花くん、この頃いつも急いでるけど、何か習い事でも始めたの?」
靴を履き終えた浩行は顔だけ少女たちに向け、内心の苛立ちを隠したままにこっと微笑んだ。
「宇田さんたちには関係ないから」
憧れのクラスメートの、滅多に見られない笑顔で告げられた辛辣な言葉に、少女たちは思わずたじろいだ。
「相変わらず冷たいね。立花くん」
「そこがいいんだけどね」
「でもやっぱり笑顔もステキ」
遠ざかっていく少年の背中を見つめながら。
「ただいま!」
勢いよくドアを開けた浩行は、そのまま洗面所でうがい手洗いを済ませると、一目散にリビングに向かった。
「お帰りなさい」
ソファーに座っていた容子が顔を上げ浩行を迎えた。
「今ちょうどおっぱいあげたところなの」
視線を自分の腕の中に戻す。数ヶ月前に誕生した、小さな命。
浩行はランドセルを下ろし容子の隣に腰かけて、母親の腕の中の妹を覗き込んだ。
「茜」
名前を呼ぶと、小さな握り拳がぴくりと動いた。
「茜はお兄ちゃんが大好きなのね。浩行がいるといつもご機嫌なんだから」
「容子さん、抱っこしてもいい?」
「いいわよ。それじゃあ、私はちょっと買い物に行ってくるわね。オムツも替えたばかりだから多分大丈夫だと思うけど。もし何かあったらお隣のおばさんのところにすぐ行くのよ?」
「うん」
容子が部屋から出て行くのを見送ると、浩行は自分の腕に抱いた妹に頬を寄せた。
「茜、今日もいい子にしてた?」
「ばーむー」
嬉しそうに手足をばたつかせる茜が愛しくて。
「茜はね、俺のものなんだよ。ずっと、絶対に。誰にも渡さない」
自分の世界が茜に埋め尽くされているように、茜の世界にも自分だけが存在していればいいと思う。
丸い瞳が映すものも、小さな耳が捉えるものも、柔らかい手が触れるものも、自分以外の何ものでもあってほしくない。
底を知らない欲求。
叶うはずのない願いだとはわかっているけれど。
「俺の一番は茜だから、茜の一番も俺じゃなきゃ駄目だよ」
いつの間にか閉じてしまっていた目を開け、浩行は辺りを見回した。
見慣れたリビングの風景。キッチンから茜が夕食の準備をしている音が聞こえる。
随分と懐かしい夢を見た。
深く息を吐き出す。
何も考えずに、ただ、茜を愛しているだけでよかったあの頃。
茜中心に全てが回っていて。
「お兄ちゃーん、そろそろご飯できるよー」
「ああ」
茜に答え、ソファーから腰を上げた浩行は思わず笑みを漏らした。
今だって、世界は茜中心に回っている。
あの頃と少しも変わらず。
きっとこれからも、変わらない。
100のお題 / くさり目次
2004.09.05
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